自分の道を生きる

梅雨入りしたというのに、真夏の暑さですね。
久しぶりの更新です。


生きていくなかで、いろいろな経験をし、いろんなことを言われ、本を読み、だんだんと自分の考えなのか他人の考えなのかわからなくなっていくことがあります。


わたしは平和で穏やかな生き方が理想だし、それをするんだ、といつのまにか自分に言い聞かせながら生きてきたのですが、、
最近になって、それは自分には合わないということに気づきました。
つねに、何か目標や夢に向かって奮闘している人生が楽しいし、自分には合っている、とやっと自覚したところです。人からみたら波乱万丈に見えると思うのですが、楽しい努力ならいくらしてもいいし、何かをめざしている自分が好き、とやっとわかったわけです。(笑)
そうして生きている限り、実現したい夢にむけて奮闘していくのかもしれません。

そして、自分の奮闘がこの世界の平和につながっているといいなと思います。

人それぞれに生き方がある。

誰のまねでもなく、それぞれが自分を生きられるようになれば、そこに平和が訪れるのだと思っています。

もっと落ち着いたら、と言われたり、安定が大事、と言われたりすることもありますが、
わたしは何かに向かって奮闘していたいし、人になにかよい影響を与えたいとも思っていますし、これからも命ある限り、動いていきたいです。
一人ではなく、様々な人たちと手をつなぎながら。
そして平和でみなが笑顔になれる世の中を作れる一人になりたい。


自分が何をのぞんでいるのか、
誰かの言葉に左右されることなく、しっかりと見つめることが大事と思いました。

今年をふりかえる

早くも12月半ばということで、恒例の今年を振り返る。
今年もいろんな挑戦と出来事がありました。
なんといっても、初個展でしょうか。
まず額をそろえるのに苦労しましたね。
そして展示の難しさ。
伝えたいことが伝わる展示になっているのか。
1回目をうけて、夏に再び場所を変えての個展。
空間づくりにこだわり、大きなスライドで絵をうつしだすという試み。
バックミュージックも選曲し、お店そのものを絵の世界に・・・というコンセプト。カフェでしたので、お店とのコラボスイーツまで作っていただき。やりたいことを試みることができました。
といっても、課題はたくさんあります。

絵といえば、2年にわたってたずさわった曼荼羅の開眼供養が無事に行われました。いろんな思いがまだ渦巻いておりますけれど、やれるだけの力をだしきって向かった曼荼羅制作。手元に絵はないけれど、携われたことは一生の宝。

そして、似顔絵アートの毎月の出店。レストランやイベント。東京埼玉山形と。おかでさまでたくさんの人を描かせていただきました。できあがって渡すときの、お客様の喜びの表情を見るのがなによりのわたしの喜び。

絵本の制作。
思った形にしたくて、自費制作にふみきりました。
試行錯誤できたのがなによりよかったです。


山形での子供たちの紙漉き講師。
山形を離れてしばらくたちますが、こうして呼んでもらって関われたことは嬉しいことでした。懐かしい人たちともたくさん会えました。

和紙といえば、夏に鳥取のあおや和紙工房での展示会にゲスト参加させていただきました。大きな和紙に絵を思う存分描けた幸せ。
それを灯りに仕立てました。今は、浜村温泉の旅館で飾ってもらっています。


そして、アイヌイベントの主催。
声掛けしてもらって、メンバーで試行錯誤しながら作り上げたイベント。
思いを共有できたことが何より良かったことです。


長らく行ってみたかった、長野の松本のクラフトフェアでお友達の出店手伝いできたことも楽しい出来事でした。とにかくものすごい出店数。ものづくりパワーを浴びました。

松本は再び訪れ、縄文ツアーをしたのもの楽しかったです。
お客さんを巻き込んでのミュージカル「空中キャバレー」は最高でした。

海外は、スリランカへ行きました。
初のアーユルヴェーダ体験に大仏教遺跡巡り。大自然の力と恵みを浴びました。そして歴史のなかから感じた愛とはなにか、という感慨。

数え上げるときりがないですね。
たくさんの人との出会いがありました。
こうしてわたしが作られていく。
明日の自分はまた違った自分。
生きているだけ新しい自分が作られていきます。

言葉のチカラ

昨日はひさしぶりに神保町の古書街をぶらり。
いつも行くお店のほかにも、路上に並んだ古書をひやかしながら歩くのが楽しい。

ふと入ったお店で、「カタリの世界」という月刊太陽の古書に魅かれて手に取る。
言霊のちからについての解説にはっとした。

日本人の名前に多く、物語の主人公の名前にも数多くつけられている「太郎」という名前。
これを「タロウ」と書くととたんにその響きの奥に秘められた何かにいざなわれる。
この「タロウ」は「タレル」につながり、神様が垂れる・・・降臨されるという意味になるんだそう。
「太郎」はつまり神様が人間界に降りられたというあらたかな名前!
神聖な名前だったとは。

ふだん、漢字に目がとらわれて気づかない「音」に込められた意味。
それが「カタリ」では浴びるように音が入ってきて、言葉のチカラを体感できる。
昔話なども「カタリ」の世界。
あらためて、言葉に出してみることで新しい発見があるかも。

文字を持つ前はみんな、口伝だけの世界だった。

言葉の響き。こめられた意味。

ちょっとどきどきわくわくしました。
自分の名前にこめられた響きにもなにか意味があるかもしれない。

世界構想

わたしの世界構想というのがあります。

もう10年くらい前から。

そのゴールは、「世界が平和になること」。
大それたことを言っていますが、、本気です(笑)。

どうやったら平和になる?を小学生のころから頭に、
さまざまな仕事をし、試行錯誤し、さまざまな人と出会い、話し、本を読み、体験し、いろんな国に行き、、、

キーワードは、
家庭菜園、食卓、自然、心の平和、潜在意識・・・
ミニマムな社会


「菜園家族」という本を読んで、まさに食べ物における最高の在り方はこれだ!と確信したものです。

一家族ごとに、野菜を小規模でいいから栽培して生きていく。お隣さんたちと野菜を交換したりして、種類も増えます。
種の交換もあり。自分たちで小規模で育てるから農薬もいりません。大変さもありません。
生命をはぐくむことは子供たちにもよい影響を与えます。


できれば、独立した家があるとよいものです。
富山の散居村のあり方はとても素晴らしいと思っています。
家を守る木々と落ち葉堆肥が自然とでき、畑の肥料となります。
よい間隔で家々が点在。

エネルギーについては、その地域ごとの小規模発電がいいと思っています。
さまざまな障害をもたらす高圧線もなくなりますし。


そして、里山のあり方はすばらしい行き方の例をもたらしてくれます。
動物と人間とのバランス良い住み分け。助け合い。


家族の間では、なんといっても「食卓」が大事だと思っています。
わたしがする食育は食卓づくりがいつも基準です。
家族みんなで食卓を囲むことの大切さ。

季節を大切にした生き方。

これらが、わたしの世界構想。
みんなが実践したら、世界が平和になる!と信じています。


まずは自分からはじめると意気込んだものの、、
都市を離れた暮らしもしましたが、イメージしたものとは違うことになりリセットすることに。


いまはわかりますが、何がイメージを邪魔していたのかというと、
「潜在意識」でした。
生まれてから知らず知らずに刻みこまれてきた意識。
できっこない、とか、そんなことは夢ものがたり、とかいろんな人に言われたことなどが知らないうちにしみついてしまっていて、頭では「できる」と思えても、実際はトラブルが起きて進まない、、というのは、まさにこの潜在意識のなせるわざ。「できない」意識などが根底にあると、知らないうちに自分の言動として出てしまっていたり、周囲にもそれが伝わってしまいます。


簡単に、潜在意識を変えることはできなくても、
絶対に変えることができます。
今年はそんな体験もしたので、大きな希望がもてました。
この「潜在意識を変える」を世界中の人が試みたら、確実に宇宙が変わる!と信じて疑いません。
ひとりひとりが自分と向き合う必要があります。
外のことではなく、間違いなく、自分と向き合わなければいけない。
そんな取り組みもしていきたい、と思っています。

大それたわたしの世界構想(笑)。
スタートしています。

地球は美しい!

最近、ひさしぶりにオフィスで働きはじめ、外の世界と隔絶されたなかで、ふっと窓のそとをみて、なんて美しい空!
こんなにも素晴らしい空がひろがっているのに、わたしたちは冷たい建物ののなかに閉じ込められて真っ暗になるまでパソコンとにらめっこしている。

なにか、やっぱり違和感を感じずにはいられない。
社会のためになることをやっている。。。
なんだけれど!

究極、生きていくために必要なのものは
食べ物、寝床、衣服・・・
それなのにわたしたちは複雑極まりないことをたくさんして生きている。
シンプルなはずの暮らしをとても難しくしている。

これだけのことができるのだから、もっと平和に穏やかにストレスなく暮らすためのやり方をみつけられそうなのに。

お金のために働いているような感覚。

お金そのものにはなんの意味もないのに。

食べ物はどうやって作れる?
寝床はどうやって作れる?
買うことじゃなくて、根本から考えなおしたら答えが見えてくる。


オフィスで久しぶりに働いたことで、はっと我にかえった。
こうしちゃいられない。

こんな美しい空を放っておけない。
こんな美しい地球をほおっておけない。

いつでも選べる

不満があるとき、外側の環境のせいにしていては何も変わらない。


じゃあ、いったいどうしたらいいの?


相手を責めても、何もかわらない。お互いが傷つくだけのこと。


嫌なこと、辛いことを感じたら、、、
誰のせいにもせず、そこから離れることを選ぶ。

前回の日記では、意識を離す、ということを書いたのですが、
なかなか難しい、というときには行動してしまうのもありかなと。


たとえば、いま座っている窓辺が陽射しが強くて暑い・・・
席を立って場所を変える、ということです。

「も〜なんでこんなところに窓があるの!とか、なんて暑いの!」と環境や誰かのせいにしたところで状況は何もかわりません。
その場を立つ勇気、移動する勇気、を出して行動するのです。


人との関係もそうです。
離れられる関係ならば離れてみる。
嫌味など言わずに、さらっと。
嫌なのに文句を言いながらその場にいるのは、その状況を受け入れてしまっているということです。
それでいい、ってことになっちゃってる。


嫌なら、その場を離れる勇気を出すことなのです。
その状況を受け入れてるのはまぎれもなく自分なのです。


そして、必ず、自分にとって心地よい場所は存在しています。
自分を信頼して、旅立つ。


自分が変わることで、まわりも世界も変わる! 

苦しみはどうして生まれるのか

ひさびさの更新です〜!
すっかり初夏の気候ですね。

スピリチュアルな内容です♪


どうして苦しみは生まれるのか。
生きているとつらいこと、たくさんあります。
精神的にも肉体的にも。

今日は暑いですね。
これ、暑いだけでは苦しみじゃないですね。
でも、暑くて、なんでこんなに暑いの?嫌だ〜と思い始めると苦しみになります。
現状を受け入れられないことが苦しみになってしまうのです。

今、わたしは両腕がオイルでかぶれてしまってとてもかゆいんですが笑、
かゆい、だけでは苦しみじゃないのですよね。
なんでかゆい〜、嫌だ〜、となると苦しみです。

暑く無くて心地よい状態、かゆくなくてなんともない状態を知ってるから、
そうじゃないこと、と比べて今が苦しみになってしまうのですよね。


よくその系統の本にも書かれていますが、
今を受け入れると楽になるよ〜というのはこういうことなのですね。

でも今を受け入れるってどういうこと?って思っちゃいます。

暑いは、暑いとだけ感じる心。
かゆい、はかゆいとだけ感じる心。ということなんですよね。

それだけで苦しみは生まれないのです!!


ほかのことについても同じこと。
望みのものが手に入らなくて、なりたいものになれなくて、
思い通りにならなくて、苦しみが生まれます。


そんなときに、現状を受け入れると楽になるよ、といわれますが、
渦中にいると、なかなか理解できないんですよね。


個人のあたまのなかで想像することや考えることって、大きな見地からみるとほんとうにちっぽけです。


たとえば、
バラになるために生まれてきた植物が、サクラに憧れてサクラのようになりたい!と努力してるようなものなのです。
大きなところから見ると、バラがサクラになろうとがんばっていることは、どう見ても無理があるわけです。
バラにとっては、必死で努力しているのにサクラになれなくて、苦しみが生まれています。そこで、それを見かねたものが、バラに「あなたはバラなんですよ!」と教えるために、鏡を用意して見せたとします。
そこでバラが「あ!わたしはバラだったんだ!」と気付ければ、苦しみから解放されます。
ところが、「がーん!サクラとは似ても似つかない!もっとがんばらなきゃいけない!」と鏡を見たバラは苦しみを感じてしまいます。


これが、わたしたちが感じている、苦しみ、なのですよね。


宇宙の愛、とよく言われていることが、
この”鏡を用意して、自分が誰なのかを見せようとしている”ことです。
けれど、わたしたちはその鏡を見せられて、思っていたのと違う、と苦しみを感じてしまっているのです。


鏡にあたるものは、いろいろです。
人だったり、出来事だったり。


それを通して、自分をよく見ることが一番大事なことなのです。
そして、バラの例でいえば、「あ!わたしはバラだったんだ!」と自分を知って受け入れるだけなのです。
それだけで楽に自分らしく生きていけるのです。


苦しみ、を感じたら、ふっとその場をはなれる努力をすることです。


苦しみは、「自分はこうじゃない」と思う心から生まれています。


まずは小さなことから。



今、暑いですか?
暑いことは苦しいことですか?

(*^_^*)